初めて目にした、鮮やかに煌めく蒼い色。
あの時、たぶん、私はあなたに恋をした。

Crack of Dawn

真新しい籠、握り慣れていない木の杖。
染みひとつない地図を開けば、ふわりとインクの香りが漂った。
「えぇと、ヘーベル湖は、っと…」
知らない地形を描いた紙は、見ているだけで心が躍る。
「こっちだよ。そっちじゃねぇ」
場所が分からずさまよう瞳を、少女の隣に立つ青年は気づいたのだろう。
無骨な指先で現在地、そして目的地を、ため息混じりに示してみせる。
そこには確かに、ザールブルグの街とヘーベル湖の名前が書かれていた。
「本当だ。ありがとう、ダグラス」
橙色の帽子を揺らして、少女−−錬金術士の卵・エリーは青年を見上げた。
「大丈夫かよ、そんな調子で」
特徴のある青い鎧を纏った青年・ダグラスは呆れたように呟く。
けれどそんな皮肉っぽい口調も、今のエリーにはどこ吹く風で。
「うん、頑張る!」
満面の笑顔で歩き出したエリーに、ダグラスはただやれやれと肩を竦めた。

事の始まりは、エリーが観光気分でシグザール城門前に歩いていった時。
ザールブルグの街に来たばかりのエリーは、探検気分のまま、一番大きくて立派な建物のところまで歩いていったのだ。
当然ながら城内に入ることなど出来ず、門番をしていたダグラスに文字通り門前払いをされたのだが。
この街にまだ知り合いもいなかったエリーは、鎧姿の彼に対して、唐突にも採取の護衛を依頼した。
ダグラスは最初は渋っていたが、後ろから現れた聖騎士隊長に『技を磨く良い機会だ』と言われると、二つ返事で承諾してくれた。
それがほんの数日前のこと。
早速、と言わんばかりに、エリーは採取へ行くことに決めた。

空は高く晴れ渡り、鳶が緩く弧を描く。
ザールブルグの街を出てから約二日。遠く思えた道程も軽い足取りで、着いてみればあっという間だった。
「うわぁ、すごくきれいな湖」
街から北西にあるヘーベル湖は、エリーが思っていたより広く、遠く澄んでいる。
ここの水に疲労回復効果がある、というのも納得してしまうほどだ。
「相変わらずいい場所だな、ここは」
湖上を渡ってくる風が、頬をふわりと撫でていく。
野営道具をどさりと下ろすと、ダグラスもまた湖を眺めた。
「ダグラスは来たことあったの?」
「討伐隊や巡回任務でなら、な」
こういう機会はそうそうねぇよ、と続く言葉。
彼は冒険者ではなく、聖騎士という立場なのだから、それもそうかとエリーは心の中で頷いた。
「さてと、目的は材料集めだろ? ぼーっとしてていいのかよ」
道すがらに軽めの昼食を取った後で、今はもう太陽は中天をとうに過ぎている。
まだ陽の長い時期とはいえ、あまりのんびりしていては、すぐに夕暮れ時になってしまうだろう。
「そうだね、急がなきゃ」
エリーは慌てて図鑑を取り出して、採取用の籠を掴むと、小さな身体を弾ませて湖畔へと向かっていった。
「この辺を見回ってるから、何か出たら呼べよ」
「はーい」
振り返って手を挙げてみせるエリーに、ダグラスは唇の端をにやりと上げる。
「うっかり湖に落ちねぇようにな」
「わかってるよ!」
明るい声に口の悪さが相まって、何とも憎らしい。
せめてものお返し、とばかりに、エリーはわざとらしくぺっと小さく舌を出してみせた。


***


魔法の草、ズユース草、ズフタフ槍の草、ミスティカ。
材料としては初めて見る草を、ひとつひとつ図鑑で確認しながら、手元で束ねて籠に入れていく。
持ってきた空き瓶に湖水を詰め終わると、エリーは大きく伸びをした。
「よし、今日の採取は完了」
時期が良かったのか、予想以上に薬草類が多く採れた。
この調子なら、明日には早くも籠の中がいっぱいになりそうだ。
ほくほくとした笑顔を浮かべながら、エリーは湖に背を向けた。
「そろそろ野営の準備もしなくちゃね」
見れば、山の端がそろそろ黄昏色に染まり始めている。野営支度を始めるにはちょうどいい時間だ。
ダグラスに声をかけて、料理や薪拾いなどの分担を決めなければ。
エリーは重さを増した籠を背負い上げると、さくさくと下草を踏んで、荷物を置いた場所へと戻った。
…のだが。
「あれ?」
そこにはいつの間にか小さな天幕が張られていた。荷物もその中に粗方仕舞われている。
けれど、それを張ってくれたのだろう人物が見当たらない。
「また見回りに行っちゃったのかな」
ぐるりと辺りを見渡しても、そこにダグラスの姿はなく。
このまま待っていようと荷物を下ろして座ったものの、何となく落ち着かない。
所在なげに榛色の瞳を動かすと、焚き火用の枝がいくらか集められていることに気づいた。
ただし、そんなに量は多くない。一晩火を保つには、まだそれなりの量が要りそうだ。
「薪拾いに行ってこようっと」
じっとしていることが出来ず、エリーは裾を払って立ち上がった。
そんなに離れた場所でなければ、特に問題はないだろう。…たぶん。
念の為に、木の杖だけは片手に持って、湖の東側へと向かった。

林と呼ぶには少ない木の間を縫うようにして、乾いた枝を拾って歩く。
陽の光が遮られる分、草地に比べれば若干暗いものの、自然に囲まれた村で育ったエリーには全く苦にならなかった。
「……?」
ふと耳をすませば、風を切るような音が聞こえてくる。
何か…いや、誰かがいる気配がする。思い当たるのはひとりだけ。
しかし野党や盗賊の類であれば、無防備に声をかけるのは命取りになるだろう。
エリーは枝を両手に抱えたまま、そっと木の陰から音のする方角を見た。
少し遠い位置に、赤銅色の髪をした、背の高い青年の姿。
身体の緊張を解いて、エリーは声をかけようと口を開いた。
しかし、出しかけた声を飲み込んでしまう。
隙のない姿勢から、大振りの剣がゆっくりと、迷いなく前方に構えられていくのを見たからだ。
一呼吸、二呼吸と、息遣いまで聞こえてきそうなほどの静寂。
それを切り裂くように、大剣が宙を舞った。
右上段から左下段へ、勢いは衰えないまま剣を翻し、間髪入れずに中段を水平に薙ぎ払う。その場から一歩踏み出し、上段から更に鋭い一閃を放つ。
合間に聞こえる短い気合いの声と、大剣の重量など微塵も感じさせない動きに、ただただ圧倒されるばかり。
一連の動きが終わり、再び剣を構え直すと、白い外套が大きく風のかたちを描く。
黄昏の陽射しの中に、青い鎧姿。眼前に広がるのは、まるで物語の絵姿のようで。
けれど、何よりエリーの心に灼きついたのは、真っ直ぐに前を見据える、鮮やかに蒼い瞳だった。
力強く輝くその色に惹かれるように、少しだけ身を乗り出したエリーの足下で、落ちていた小枝がぽきりと乾いた音を立てた。
「誰だ!?」
ダグラスが勢いよく振り返るのと、エリーが大いに慌てるのがほぼ同時。
動揺のあまり両手で抱えた枝を取り落としそうになるエリーを見て、ダグラスは長めに息を吐き出した。
「なんだ、お前か」
ダグラスは握ったままだった大剣を軽く振ってから鞘に戻すと、近くに置いてあった枝の束を手に、少し離れた位置にいるエリーの傍にすたすたと歩いてくる。
「ごめんね、邪魔しちゃって」
「気にすんな。ちょうど終わるつもりだった」
エリーの手から一抱え分の枝も受け取ると、ダグラスは申し訳なさそうに首を掻いた。
「こっちこそすまねえ、だいぶ拾わせちまったな」
そんな彼に対してエリーはふるふると首を振ってみせると、ふたり連れ立って野営場所まで歩き出す。
気づけば、もう太陽の半分ほどが山の向こうに沈んでいる。
薄藍色に染まる東の空には、ちらほらと星明かりも見え始めていた。
「採取とやらはもう終わったのか?」
「うん、今日の分は。色々集められたよ」
素材の詰まった籠を思い出して、エリーの頬が自然に緩む。
ここで採れた素材は、初等錬金術で特に重宝するものだ。
そしてザールブルグに戻ったら、錬金術士として初めての調合に使うことになる。
「明日一日あれば、籠もいっぱいになっちゃいそう」
憧れのひとに近づくために踏み出す一歩が、こんなにも楽しいものだなんて思っていなかった。
うきうきとした足取りでエリーが振り返ると、ふいに鮮烈な蒼色が頭に蘇ってくる。
「そうか、案外早いもんだな」
感心したように声を零すダグラスの、自分より頭ひとつ分高い位置にある顔を見上げてみれば、蒼い双眸は今は穏やかに凪いでいた。
何となく安心したような、少し残念なような気持ちを覚える。
「? どうかしたか?」
急に顔を覗き込まれて怪訝な表情のダグラスは、そんなことなど知るはずもない。
「なんでもない」
エリー自身にも、ふと沸き上がった気持ちの正体が、よくわかっていないのだから。
不思議な感覚を断ち切るように、エリーはぱっと駆け出した。
野営場所はもうすぐそこだ。
「今日の夕飯、私が作るよ。量多いほうがいい?」
残照に輝く水面を横目に、至って明るく問いかける。心のどこかをごまかすように。
「ああ、そうしてもらえると助かる」
深く追求されないことに少しだけ感謝しながら、エリーは笑顔で頷いた。


***


あれから三回季節は巡り、もうすぐエリーにとってザールブルグで過ごす四度目の秋を迎える。
錬金術の奥深い世界、憧れのひととの邂逅、かけがえのない親友達や街の住人達との縁−−そして何より大切な、いつも傍にいてくれる存在。
アカデミーに入学してからは困難も多かったけれど、それ以上に実り豊かな時間だった。『命の恩人に直接お礼を言う』という夢すら、叶えることが出来たのだ。
けれどそれは自分ひとりの力だけではなく、周囲の人々、特にダグラスの力が大きかった。
彼がいなければ、海竜を倒すことすら出来なかっただろう。
夏空を映してきらきら輝くヘーベル湖を眺めながら、エリーは目を細めた。
この景色を見るたび思い出すのは、あの日の蒼の記憶。
夜明けの光のように、鮮やかに残る色。
きっとあの時から、彼のことが特別になっていたのだと思う。
「どうした、ぼーっと突っ立って」
…口の悪さは相変わらずだけど。
苦笑しながらエリーが振り返ると、ダグラスが外套が擦れそうなほど、すぐ隣に立つ。
「ぼーっとなんてしてないよ。湖を眺めてただけだもん」
「どう違うんだかな」
少しばかり頬を膨らせてみせるエリーの髪を、大きな手のひらがぽんぽんと撫でた。
口調とは裏腹の優しい仕草に、気勢はすぐに削がれてしまう。ずるいと思えてしまうくらいに。
「ほら、採取行ってこいよ。俺は薪集めのついでに一巡りしてくるから」
「はーい」
エリーは言い返す言葉も思いつかないまま、近くに置いていた籠と杖を手にして歩き出す。
しかし数歩進んだ先でその足をぴたりと止め、そうだ、と小さく呟いた。
「ねぇ、ダグラス」
「ん?」
「あとで、剣の稽古見たいな」
予想外の言葉のおかげで呆気に取られるダグラスに、ダメかな、とエリーは小首を傾げた。
「別に構わねぇけど、そんな面白いもんでもないだろ」
「そうかな、私は好きだよ」
エリーの素直な言葉に、ダグラスはどこか照れくさそうに顔を背けた後、不意に悪戯っぽい表情を見せた。
「じゃあ、お前もあとで歌聴かせろよ。最近教わったらしいやつな」
「何で知ってるの!?」
「ロマージュに聞いた。それに、たまに口ずさんでるだろーが」
言われてみれば、思い当たる節がいくつかある。調合の最中や、街の中を歩いている時、今のように採取に出ている時。
最近は特にダグラスが工房に顔を出す機会も増えているし、どこで聴かれていてもおかしくない。
もっとも、歌を教えてくれた本人から聞いているのだから、しらばっくれたところで絶対に見逃してはくれないだろう。
「う…わかったよぅ」
上手くなってから披露するつもりだったのに、とエリーはひとりごちた。
今日の採取は早めに切り上げて、こっそりどこかで悪足掻き…もとい練習でもしよう。
諦めのこもったため息をついて、愛用している南の国の楽器を入れた袋も拾い上げる。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ、気をつけろよ」
何かあったらすぐ行くからな、と続く言葉に背中を押されながら、今度こそ湖畔へ歩いていった。

「  −−」
岸辺を散策しながら歌を口ずさみながら想うのは、彼の瞳の中に見た、鮮やかな夜明けに似た蒼色。
あの瞳の色を、エリーはずっと傍で見てきた。その中にある優しさに、いつも勇気付けられてきた。
そして共に海竜を倒した今、その色が一層強さを増したことを、誰よりも知っている。
だからこそ、自分の夢を叶える為に尽力してくれたダグラスを、今度は自分が精一杯応援したい。
今年こそきっと遥かな頂に届くと信じて、エリーは高く晴れた青空を見上げた。

今年の武闘大会まで、残り四ヶ月。





2014.9.21

Pixivにうpしてた文章を、最後のあたりだけ軽く手直しして、こちらにもうpしました。